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2015年1月

2015年1月28日 (水)

悲しみについて

笑いは、緊張の弛緩だといわれます。
悲しみは、脱力、失望、挫折感を伴います。
怒りや笑いが他者との関係性から生じることが常であるのに対し、悲しみは個人的・内向的なもののようです。

人は、たった一人でいて笑ったり怒ったりするでしょうか。
もしするとしたら、それは、動物なり運命なりを擬人化しているのでしょう。

例えば、食べようとして皿にケーキ乗せて歩いていたら、転んで落としてしまったとします。
そのとき、笑うか(自己の客観化による余裕)、怒るか(八つ当たり)、悲しむか(心が折れる)。

このとき、笑いの対象は、客観化した自己であり、怒りの対象は、自分以外の誰か責任を転嫁する先でしょう。
そして、悲しみの対象は、自分自身となりそうです。

例えば、誰かが食べようとして皿にケーキを乗せて歩いていたら、転んで落としてしまったのを見たとします。
そのとき、笑うか(他人事)、怒るか(義憤・公憤)、悲しむか(同情・感情移入)。

こうしてみると、やはり、笑いや怒りは他者との関係性であるのに対し、悲しみは個人的・内省的なような気がします。

ニュースで接点のない有名人の死を知ったとします。
このとき、怒るか(義憤・公憤)、悲しむか(同情・感情移入)、それとも、笑うか(嘲笑)。

親しい人が死んだとします。
このとき、怒るか(犯人探し)、悲しむか(個人的感情)、笑うのは相当タフな精神力が必要でしょう(空から自分を含むちっぽけな人間劇場の喜劇を見下ろした気分)。

この場合も、やはり、怒りや笑いは死と自分以外の第三者(死者を含む)が必須なのに対し、悲しみは、死と自分のみで成立します。
あるいは、その悲しむ人に感情移入することによって。

笑いや怒りが何かのきっかけになり得るのに対し、悲しみは、何も生じさせず、ただ耐え忍ぶしかありません。それは、悲しみが他者との関係性を持たない、単なる自己満足にすぎないからなのでしょう。

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2015年1月18日 (日)

訃報

訃報を受けたときに頭の中に何が響くか。

私の場合は、ブルックナーの交響曲7番第2楽章でした。
この部分を作曲しているときに敬慕するワーグナーの訃報を聞いて、嘆きのフレーズとなった、といわれています。
繰り返し現れる重厚な唸るようなフレーズは、最後の部分で高揚して宗教的になっていきます。 あらゆる信仰の深奥の共通部分の赦しというか昇華というか、そういう、人間が原初から知っていた感情は、きっとこのようなものでしょう。

その後に続く第3楽章は、荒野を一陣の風がよぎり、やがて疾風に森全体が轟き咆哮する破壊的な音楽です。
荒々しい爽快さで、これも一種の救いと感じられます。

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