(日フィル定期)ブラームス
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土曜日、日フィルの東京定期を観ました。
ラフマニノフの交響曲第1番
かつて聴いた演奏は、冒頭の動機が、低音のクラリネットが響く重々しくて地獄の釜の蓋が口を開けたようなおどろおどろしさで演奏され、終楽章の盛り上がりは、現世の快楽が虚無であることを示すようで、それがドラの強打でかき消された後の部分は、果てしない沼の底に無限に沈み続ける、といった演奏で、重苦しさだけが印象に残るものでしたが、今回のラザレフの演奏は、まるで別な曲のように感じられました。
まず、冒頭部分は、5本のホルンが、まるでファンファーレのように勇ましく鳴り響きます。
終楽章のカーニバル風の盛り上がりは、すさまじい音量とスピードで、まるでサーカスの曲芸のようでした。途中指揮台を降りて第二バイオリンとチェロに近寄り煽り立てる一幕もありましたが、そういう風に弦の厚みにこだわったことで、ロシア農村の祭りのような人類の祝典のような音楽になりました。ドラの強打に掻き消された後の部分も、したたかに立ち直るような力強さがあり、ハイテンポで打楽器を打ち鳴らしながら勢いよく颯爽と終わりました。
どちらが標準なのかは知らないのですが、ともかくまったく違う曲想でした。今回のラザレフの解釈と演奏の方が好みです。
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サントリーホールで、日フィル定期演奏会に行ってきました。
マーラーの交響曲第3番。
マーラーの音楽は、ビジュアルな効果も盛り込まれているので、コンサートホールで聞くと、CDで聞くより何倍も面白いと思いました。
まず、ホルン8本の斉唱。
8つのホルンがいっせいに採りあげられて奏で始めると、音だけではなく、黄金色の8つの楽器が照明にきらきら輝いて、耳ばかりでなく目も引きつけられます。
第1楽章の各所で、そして、終楽章のフィナーレ近くで、この効果的な演出が「見られます」。
そして、シンバルとティンパニーが2組なのも視覚効果を考えてのことでしょう。
シンバル2組、4つの円盤が鳴り響いた後、それぞれ両手いっぱいに広がってゆらゆらと揺れるたびに、これもきらきら輝きます。
シンバルは、いろいろな打楽器との掛け持ちですが、ティンパニーは2人。頑張れば1組でも何とかなりそうですが、やはり、終楽章の荘厳なフィナーレの最後を視覚的にも盛り上げるために、あえて2組としているに違いありません。
ベルアップというのでしょうか、木管楽器が一斉に楽器を水平まで持ち上げるのも、視覚効果が主な目的なのでしょう。
あと、見ていて発見があったのは、フルートが4本ともピッコロに持ち替えていること。
第1楽章の後半で、天に浮き上がったような雰囲気になるのは、このせいだったのか、と感じました。夜が明けて光り輝く第5楽章の終わり近くでも、この4本ともピッコロが見られました。
30分以上かかる第1楽章が終わって指揮棒が下りた途端に、次にそれを持ち上げるのはちょっと待ってくれ、といわんばかりに、皆一斉に大急ぎで楽器の手入れをし始めたのも、生演奏でないと気が付きません。
6楽章のうち、第4、第5楽章に声楽入りの楽章が挿入されています。この第4楽章の深い夜の闇と第5楽章のまばゆいばかりの晴れ晴れとした世界の対比が際立っていて、残りの器楽4楽章で言わんとしていたことの要素を分かりやすく提示しているようです。
第5楽章は、アルト独唱が救済を求めるペテロ、それに救済と祝福を与える女声合唱と児童合唱、というものですが、なんだか、冤罪が晴れた瞬間、というか、とうとう赦免船に乗せてもらえた瞬間というか、そんなちょっと屈折した深い幸福、が感じられてかなり感動しました。
そのまま終楽章に続き、穏やかながらも弦楽器が息も継げないほどの緊張感で静かな旋律を奏でます。
だいぶしばらくたって、木管楽器、金管楽器が、出番が来ると、その直前になってから楽器の手入れをして、次々参加していきます。
自室で一人ピアノに向かって作った作曲専門家の音楽ではなく、日々オーケストラと仕事をしている指揮者の作った音楽だと感じました。
ウェーブのように波及していって、オーケストラ全体が一個の生命体のように躍動しています。
マーラーの音楽においてオーケストラは楽譜の記載を再現するための装置ではなく、逆に、楽譜はオーケストラに命を吹き込むことを目的とした遺伝子情報のようなものなのでしょう。
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土曜日、日フィルの定期演奏会を聴いてきました。
放射能汚染の渡航制限で指揮のインキネンが来られなくなり、プログラムもすっかり変わっていました。
プログラム後半はマーラーの4番。天上の音楽で、震災後にはいいチョイスだったのではないでしょうか。
特に、第3楽章。
今回は、葬送の音楽に感じられました。
安らぎを感じさせる始まりは、見送った人の落ち着き先かくあれぞかしとの願いのよう。その後、次第に思い出は巡り、幸せな日、悲しみの日、そして抑えられぬ悔恨の情が高揚し、そしてまた再び現実に戻って、祈りの音楽になる。終曲直前の爆発は、何か精神の浄化か魂の赦しのように感じられました。
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日フィルの東京定期演奏会に行ってきました。
ベートーベンのピアノ協奏曲第4番は、ファジル・サイの創作のカデンツァ(ソロの独奏部分)でした。
解説にありましたが、ベートーベン以前は作曲家が初演するときに自由にカデンツァを演奏していたのだそうですが、耳が聞こえなくなり自ら演奏することができなくなったベートーベンが第5番で楽譜にカデンツァを書き込んでしまって以来、作曲家の指示どおりに演奏することになっていたのだそうです。ぽつぽつと自分のカデンツァを残す人も少しはいましたが、21世紀になって、独自のカデンツァを残すのが増えてきたとのこと。
今日のカデンツァも現代的というかポップでジャズ風で新鮮でした。
アンコールの2曲も自作で、フュージョン風のとジャズ風のでした。
結構新鮮で、こうやって聞くと、ベートーベンの協奏曲もポップな感じです。特に第三楽章は、目まぐるしく気分が変わります。
帰りにファジルサイのCDを買ってしまいました。
例えてみれば、気難しくて、すぐにちゃぶ台をひっくり返すような親爺が、またひっくり返すか、というところで、突然機嫌を直して親しげな口調になり、ほっと安心したのもつかの間、また急に激怒して、フェイントでちゃぶ台をひっくり返される、というような感じでしょうか。
でもどこかユーモアがあって憎めない。最後は、ベートーベン特有の、どすどすと粗野な感じのスキップで明るく終わります。
後半のスクリャービンはまったく初めて聞きました。スクリャービン自体も初めてで、もっと前衛的な作曲家かと思ったら、どこかブラームス風でした。丹念に作っているようですが、メロディーが地味で、集中力が続かず、どこから展開部になりどこから再現を始めているのかよくわからず、盛り上がりも何度か波のように繰り返しますが、頂点、というような感じでもなく、予習なしにはなかなか難しい曲でした。
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今日の日フィル定期コンサートは、ビェロフラーヴェクのブルックナー交響曲第5番でした。
CDで聞いているとまるでブラスバンドのような管楽器が鳴り響く曲なのに、編成がいたってシンプルで、木管は2管編成、トロンボーンとトランペットが3本、ホルンが4本とチューバというものだったことに気づいて、まず驚きました。
これだけ大音量鳴りっぱなしとは、ブルックナーも人使いが荒いものです。
第1楽章はとてもゆっくりしたテンポで、休止で思いっきり長くためをとって、重厚でした。遅いので、弦楽器の細かな動きの一音一音がはっきり聞こえますが、管楽器は息継ぎが長くなるのでさぞ大変なことでしょう。出だしから早くも顔が赤くなっているようです。
終楽章は、途中のフーガからフィナーレまで、息つく間もない緻密な音楽です。
ホールでじっくり聴いていると、展開部がフーガで、その後、第2主題、第1主題の順で再現してから改めて長大な盛り上がりに達しているのが分かりましたが、その間、無限に登っているような感がしました。
音の「高さ」も「大きさ」も、アコースティック楽器が出すのだから、果てしなく高く大きくなるはずはなく、時々弱く低くなっているはずで、実際なっているのですが、それでも登り続ける感じがするのは不思議です。
昔、NHKの音楽番組で、ワーグナーの音楽が緊張の連続なのはなぜかと問われて、芥川也寸志が、音楽は不安定な和音と調和の和音の移り変わりで、調和の和音になるとき緊張から解き放たれるのだけれど、ワーグナーの場合は、緊張の和音が安定の和音に移るところで次の緊張の和音が同時に始まってしまう、というのを続けるので、調和の和音で安らぎを感じる間がないから、というような趣旨のことを言っていたように思います。
この曲もその原理なのでしょうが、細かな彫刻が渦巻きながらどこまでも天高く上り続ける大聖堂の尖塔のような音楽です。
嵐の渦巻く雲の中をぐいぐい昇って行き、不意に白い雲の上に飛び出て青い空が広がる、という風な、万感こみあげながらもどことなく爽快なこの曲のフィナーレが好きなのですが、今日の演奏は最後まで緊張が途切れることがなく、そんな、登りつめた爽快感、を味わうことができました。
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昨日、日フィル第614回定期を聴きました。
チャイコフスキーの幻想的序曲「ハムレット」は、打楽器が華やかで、ティンパにの他に4人の奏者がいて、最初のうちは、持ち替えれば2人でも足りそうなように思えましたが、クライマックスでは、4人必要になるチャイコフスキーの派手な曲でした。
モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は、どぎつい両曲の間にあって、清らかな印象でした。ソロの、田村響氏も若々しい演奏でした。ステージの出入りと挨拶が初々しいと思いました。マエストロラザレフは、ピアノソロにもオーケストラの一部のように、つい指示を出していましたが、第2楽章の出だしなどピアノソロ部分では、手持無沙汰のように、左手を腰に当て、右手を小さく振りながらオーケストラのパートが来るのを待っているようでした。
プロコフィエフの交響曲第3番は、初めて聞きました。強烈な不協和音が炸裂しますが、随所に見られる弦や木管の細かな旋律は美しく、完全な現代音楽にはついていけない私にも、わくわくしながら聴くことができました。第3楽章の弦楽器のもやもやとした旋律(というのもヘンですが、実際もやもやとした旋律でした。)は不思議で、最後は、ウェーブのように流れたりしてCDではなく、演奏会で聴くと楽しいと思いました。
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先週の金曜日、サントリーホールに第613回東京定期演奏会に行きました。
まだ20代のイケメン金髪フィンランド人、ピエタリ・インキネンの指揮でした。
とても丁寧な指揮ぶりと感じられました。
ベルリンフィルのコンサートマスターに内定の樫本大進のソロでシベリウスのバイオリン協奏曲が演奏されました。
カノン風に2つの旋律が絡まる部分は、1人で演奏しているのに、まるで2人で演奏しているように、それぞれの旋律が際立って、つなぎ目がまったくわからないように聞こえました。今まで聞いた演奏よりも格段に滑らかで凄絶なように聞こえました。きっと、途方もない超絶技法なのだと思います。
客席はこれまでにも増して多く埋まっているように見受けられました。新進気鋭の指揮者、ソリストがお目当てだったのかもしれませんが、それにしては、若い女性でいっぱい、というよりは、きちんとした身なりのお年寄りが大半なように見えたので、新しいシーズン第1回目ということで、営業活動が功を奏した結果なのかもしれません。
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日本フィルハーモニーの第611回定期演奏会に行ってきました。
プロコフィエフの交響曲第2番は初めて聴く曲でした。
強烈な不協和音炸裂。前作の古典交響曲が保守的だといわれ、頭にきて書いた曲、ということになっているようです。これでもかというほど近代的というか工業的というか、そんなふうに作ってあります。当時としては最先端にとんがっていたのでしょうが、ただとんがっているというだけでなく、とんがっていながらも、ぐっとくるメロディーと和音をちりばめられていて、大暴れしながらも様式によっているので理解可能だし、第2楽章の旋律には現代に生きる悲哀というか孤独というかそんな情感があります。
時代の前衛を行く場合にありがちな、おびえとか行き当たりばったりとかの感じはなく、自信と計算と余裕が感じられるあたりは天才の業だと思います。
世界が鳴り響いている感じがして、とても好きになりました。
森に分け入ると、生命が渦巻いているのが感じられます。小鳥は精一杯さえずり、ネズミは精一杯木の実を集め、ミミズは精一杯穴を掘り、ナメクジは精一杯幹を這い、木々は精一杯枝を広げ、草は精一杯花を咲かせ、蝶は精一杯飛び回り、カマキリは精一杯獲物を狙います。それぞれが自分のことを精一杯やっているだけなのに、全体が調和している、この曲には、そんな雰囲気があるように感じられました。
モーツアルトのバイオリン協奏曲5番を共演していた、ニコラベネディッティというバイオリニストは美人で溌剌とした演奏でした。モーツアルトは上品すぎて退屈そうでしたが、アンコールのイザイのバイオリンソナタでは、技法炸裂で完全燃焼できて楽しそうでした。
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日本フィルハーモニーの第606回定期演奏会(サントリーホール)に行ってきました。
演目は、ベートーベンのハ短調のピアノ協奏曲と、シューベルトの交響曲グレート。
指揮のギュンター・ヘルビッヒはいかにもゲルマン、といった感じの巨漢のマエストロで、指揮の技術よりも、全身から発するオーラによって団員全員を直接コントロールしてしまっている、といった感じの指揮ぶりでした。曲は大きくテンポを変え、リズムを変え、音が大きくなり、小さくなり、と、縦横無尽に全体が一人の精神に憑依されているかのような演奏でした。
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