雑感

2015年3月11日 (水)

コンビテンシーのホメオスタシス

どうも私は、持続可能性とか新陳代謝とかに関心が向く傾向があるようです。

この間も職場の研修で、コンピデンシーのホメオスタシスという言葉が出てきて記憶に残りました。

意味はいろいろあるのでしょうが、私なりに単純化すれば、組織のチームワークのよさをメンバーが入れ替わっても維持できるようにしましょう、というふうに理解しました。

どういう組織であれ、メンバーが固定化されすぎると、パフォーマンスは極大になり、居心地は最高になるものの、成長や新たな展開の可能性は低くなります。
一方で、ガラパゴス化し、排他的になるおそれが増加します。

学生サークルなどは強制的に押し出されつつ入れ替わっていくので、持続可能性・新陳代謝・ホメオスタシスは維持されます。
しかし、地域グループなどでは、ともすると、居心地のよさを追求するあまり、新陳代謝が進まず、固定メンバーが毎年同じことをしながら徐々に縮小し、提唱者の故障で解散、ということになりがちです。
グループ外の人は新規参入しにくく、グループ内の人は、新たな発見が減っていきます。
要するに、活気が徐々に失われていきがちです。

別に業績目標などとは無関係な趣味の地域団体であっても、コンピテンシーのホメオスタシスが維持されている集団というのは、新しい発見の宝庫で、参加して楽しいものです。

先週末、そういう集団に混ぜていただいて、楽しいひと時を過ごしたので、ふと表題の言葉を思い出した次第です。

コンピテンシーはいったん獲得すればそれで終わりということではありません。
来るものは拒まず去るものは追わず、というスタイルでありながら、ホメオスタシスを維持していくための、心がけというか、技術も重要だと思いました。

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2015年2月20日 (金)

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

昨年は、お月見の日が2回ありました。
そのとき、閏月は何月に入るのかな、と、ちょっと気にはなったのですが、まあ、閾値を越えた瞬間の次に挟むんだろう、程度のいい加減に済ませてしまいました。

今回、ちらりとwikipediaをみると、旧暦の2033年問題、というのがあるのだそうです。

閏月は、実は、厳格なルールに準拠して確定的に決まるのだそうです。
偶然なのか、1844年に天保暦が定められて以来ずっと、そのルールどおりに閏月が決まってきたのだそうですが、2033年に至って初めて、不都合が生じることになるそうです。

基本的には、 春は1月から3月、夏は4月から6月、という具合になります。
そこで、春分の日は必ず2月に、夏至は5月に、秋分は8月に、冬至は11月になければならない、というルールになっているそうです。(知らなかった。)
旧暦は季節とずれるような気がしていましたが、実は太陽の光との関係では、ちゃんと調整がされていたようです。

ところが、ルールには、この先があります。
この先というのが、感覚的には分かったような気にはなるのですが、ややこしくて、私には完全には理解しきれませんでした。

ともかく、
2033年は、単純にそのルールを適用しようとすると、9月か10月かのどちらかがなくなってしまうことにもなりかねないのだそうです。つまり、8月が終わって1か月過ぎると、もう11月になってしまう、ことになりかねないのだそうです。

大問題のようですが、2034年の2月は春分の日によってはっきりと決まるので、その後は、またしばらくは心配はなくなるようです。つまり、2033年の夏から2034年の春にまでの半年ほどの間だけの問題で、そのうちのどこに閏月を置くかが悩ましいようです。

ご関心があれば、検索して頂くとして、
ともかく、旧暦の何年何月何日であるかが分かれば、西暦の日時がきちんと決まるのだということが分かりました。

あと、季語は、気温よりも太陽の日差しの方により密接に関連付けられている、ということも理解しました。

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2015年1月28日 (水)

悲しみについて

笑いは、緊張の弛緩だといわれます。
悲しみは、脱力、失望、挫折感を伴います。
怒りや笑いが他者との関係性から生じることが常であるのに対し、悲しみは個人的・内向的なもののようです。

人は、たった一人でいて笑ったり怒ったりするでしょうか。
もしするとしたら、それは、動物なり運命なりを擬人化しているのでしょう。

例えば、食べようとして皿にケーキ乗せて歩いていたら、転んで落としてしまったとします。
そのとき、笑うか(自己の客観化による余裕)、怒るか(八つ当たり)、悲しむか(心が折れる)。

このとき、笑いの対象は、客観化した自己であり、怒りの対象は、自分以外の誰か責任を転嫁する先でしょう。
そして、悲しみの対象は、自分自身となりそうです。

例えば、誰かが食べようとして皿にケーキを乗せて歩いていたら、転んで落としてしまったのを見たとします。
そのとき、笑うか(他人事)、怒るか(義憤・公憤)、悲しむか(同情・感情移入)。

こうしてみると、やはり、笑いや怒りは他者との関係性であるのに対し、悲しみは個人的・内省的なような気がします。

ニュースで接点のない有名人の死を知ったとします。
このとき、怒るか(義憤・公憤)、悲しむか(同情・感情移入)、それとも、笑うか(嘲笑)。

親しい人が死んだとします。
このとき、怒るか(犯人探し)、悲しむか(個人的感情)、笑うのは相当タフな精神力が必要でしょう(空から自分を含むちっぽけな人間劇場の喜劇を見下ろした気分)。

この場合も、やはり、怒りや笑いは死と自分以外の第三者(死者を含む)が必須なのに対し、悲しみは、死と自分のみで成立します。
あるいは、その悲しむ人に感情移入することによって。

笑いや怒りが何かのきっかけになり得るのに対し、悲しみは、何も生じさせず、ただ耐え忍ぶしかありません。それは、悲しみが他者との関係性を持たない、単なる自己満足にすぎないからなのでしょう。

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2015年1月18日 (日)

訃報

訃報を受けたときに頭の中に何が響くか。

私の場合は、ブルックナーの交響曲7番第2楽章でした。
この部分を作曲しているときに敬慕するワーグナーの訃報を聞いて、嘆きのフレーズとなった、といわれています。
繰り返し現れる重厚な唸るようなフレーズは、最後の部分で高揚して宗教的になっていきます。 あらゆる信仰の深奥の共通部分の赦しというか昇華というか、そういう、人間が原初から知っていた感情は、きっとこのようなものでしょう。

その後に続く第3楽章は、荒野を一陣の風がよぎり、やがて疾風に森全体が轟き咆哮する破壊的な音楽です。
荒々しい爽快さで、これも一種の救いと感じられます。

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2014年12月 5日 (金)

QOL(続)

このように、命の「量」と「質」とを分けて考えるとき、「量」(太さ・長さ)の方に気を使う人を時々みかけます。

健康診断で数値にマークがついたり、耳鳴りや肩こりといった不調があるたびに、猛烈に研究し、医者にかかりに行く知人がいます。
初動が適切だったためか、単に幸運だったのか、今でも元気です。
他にも、アスレチックジムに通ったり、美肌に大金を投じたりする人はたくさんいます。

「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するやうになつて以來、人間は眞の幸福が何であるかを理解し得なくなつた。自分の不幸を不成功として考へてゐる人間こそ、まことに憐れむべきである。」

と、戦前に生きた三木清は嘆いています(「人生論ノート」)。

「幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考へられ得るものである。」

とも述べています。
してみると、「命の質」を「幸福」、「命の量」を「成功」と、それぞれ置き換えてみてもいいでしょう。


「成功」と「幸福」の区別については、今は、当時よりも普及しているように思えます。
ハリウッド映画のような華やかなサクセスストーリーよりもむしろ、スローライフへの関心の方が高いのではないでしょうか。

これは、社会が豊かになったので、量的に計測しうる「成功」の観点では、多くの人が成功している状態なので、幸福との差異を意識する場面が少ないからのように思われます。
今日でも、運悪く、量的に計測しうる「成功」の観点で、豊かさの恩恵から漏れてしまっている人はいます。ホームレスだとか難病の患者など。
こういう方の周囲においては、三木清の時代と同様の成功概念と幸福概念との混乱がみられることがあります。

例えば、ホームレスや難病患者と自分とを比較することで、自分が幸福だと考えたりします。無論誤解です。

ホームレスや難病患者を金銭面で支援して成功に導くのは、多くの場合正しいことです。
ただし、援助を受ける当のホームレスや難病患者の幸福追求へのさりげない配慮は忘れてはいけないでしょう。
例えば、ホームレスを収容して暖かい部屋と食事を提供しても、戻ってしまう人が多いようです。
成功と幸福とは別問題だからでしょう。


「一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。」

三木清はこうも言っています。
冒頭の健康マニア氏も、今のところ、毎回成功を勝ちとっていることもあり、健全です。
「一種のスポーツとして」の節度を守っているからです。 
命の「質」に影響のない局面であれば、「量」を追求するのは健全な娯楽といえるでしょう。

やがてもっと年をとり、成功をつかみ損ねるようになったとき、例えば、その時点の医学水準では治せない病気と告げられたとき、彼がどういう行動をとるのか、については、少し興味があります。私が彼より長生きしないといけませんし、そもそも余計なおせっかいですけれど。

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2014年12月 3日 (水)

QOL

QOL(生活のクオリティー)という言葉を最近よく耳にします。
普段あまり意識しないので、いざ、突然、自分や自分の親しい人が病気になったとき、どう考えたらよいか分からなくなって混乱してしまうことになるのでしょう。


生活を、量と質に分けて考えてみます(Quality Of LifeとQuantity Of Life)。
「命の量」(長さ・太さ)は自分では完全にはコントロールできません。
暴走暴飲で縮める人もいるけど、どんなに節度を守っていても短命な人もいます。その逆もあります。

ですが、「命の質」は完全にコントロールできます。
それは、「命の量」が計量的無名的なのに対し、「命の質」が主観的個性的だからです。

無菌室内にとじこもり、栄養剤だけを摂取し続ければ長寿記録を樹立できるかもしれませんが、それがその人の「命の質」を高めたのかどうかは、その人次第でしょう。

「命の量」は生存期間や白血球数などの検査数値で客観的に計測できます。
したがって、それを多くする方法は、他人に教わることができます。(限界はありますが)
しかし、「命の質」は一人ひとり尺度が違うので、他人のまねをすればいいというものではありません。
自分で考えなければなりません。

また、自分に与えられた「命の量」は、刻々と変化するので「命の質」を高める方法もまた、刻々と変わっていかなければなりません。だから難しい。
生活面で追求するべきは、究極的には、命の量よりも命の質だと思います。

命の量を中心に考えたら、ボクサーや探検家や消防士にはなってはいけない、ということになってしまうでしょうが、ボクサーや探検家や消防士を職業とすることが不幸なのか、職業とするのをあきらめることが幸福なのかは、その人次第でしょう。
職種別の平均余命などの統計や、検査数値などからは判断できません。

倫理を科目化するのなら、こういうことを予め学んでおくのがいいのではないかと思います。

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2010年11月23日 (火)

(イベント)野生動物の餌付け問題を考える市民フォーラム

誘われて、

野生動物の餌付け問題を考える市民フォーラム

に行ってきました。

・廃棄された大量のミカンや、収穫しなくなった筍、放棄された桑畑、そういうのが、サルやイノシシなどを農地に近づけることになる、

・明治以降、山へ山へと耕地を広げてきた人間が、ここへきて平地へ平地へと後退しており、中山間地の耕地がとぎれとぎれになったので、そこを突いて野生生物が平地へ攻め込んできている、

・サケを放流すると鷺が増える、

・ドイツの鳥の一部は、冬、南に行かずに、庭に餌台を置くのが好きなイギリスへ渡る、

・鳥獣保護法上、自分の土地であっても、餌やりを拒めない、

・平成19年の第10次鳥獣保護事業計画に至って初めて、餌付けの全面推奨を改め、安易な餌付けの抑制に転換した、

などなど、興味深い話題がたくさん披露されました。

パネルディスカッションの最後の方で、

保育園の子供たちに一握りのパンを渡して、池のオナガガモにあげさせる、

というのは止めさせるべきか否か、というギャラリーからの質問に対して、賛否が分かれました。
環境教育上、野生生物に興味を持つきっかけになる、という面と、野生生物をペットの延長で考えてしまうという面とがあります。

思ったのは、本当の最初に管理下に餌を介して自然に接触させる、というのはあり得る、ということと、その後は、餌付けをする場合に発生する、野生生物側への責任と同様に、人間の側への責任も果たす必要があるということです。つまり、野生生物との間の距離感、生物多様性の大切さに思いを致すように導いていく道筋をつけておくことが必要なのだと思いました。

パネリストの意見は一切の餌付を原則禁止、ということではない以上(主催団体は不満なようでしたけど)、どこかで線を引かなければならないわけですが、結局、簡単には決められないのでその都度議論していくしかない、ということにならざるを得ないので、短絡的に考えず、広く意見を聞くことが重要なようでした。

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2010年2月13日 (土)

(犬)探し物は何ですか

数日前から体調不良。なのに昨日は遅くまで職場に残されました。
おまけに今日は、朝からみぞれ模様。

なので、犬に、今日は簡単にしとくよ、と言いつつ、たくさん重ね着してから雨具を羽織り、長靴をはいて完全装備で散歩に行きました。

いつものように小走りに、というわけにはいかず、とぼとぼと犬にひかれて歩き始めましたが、そのせいかどうか、町内をくまなく引っ張り回され続けました。

下の公園から神社に上がり、小学校の周りを1周し、これで帰ろうと家の近くまで来たのに1本上の道を通り過ぎ、上の畑に上がり、隣の住宅街に入って坂道を上り下り。

ときどき、匂いをかぎに振り返った時などの機会に、「もうかえろうよう」と、促したのですが、元気のない主人を気遣うかのように見上げる、のかと思いきや、両足を突っ張って帰りたくない、とアピールされてしまいました。

そしてまた進み、電柱という電柱、塀の角という角、ゴミ捨て場、草むら、をくまなくチェックして回るのに付き合わされました。

散歩をやめるのには、匂いを嗅ぐのを忘れるくらいのスピードで走ることが必要なようです。最後は、そうやって家に駆け込みました。

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2009年8月31日 (月)

今朝の秋

今朝は、台風襲来でひんやりした空気。

これまで、朝起きたら、まずは1階に下りて窓を全開にしてきましたが、今日は、全部を開けると肌寒く感じました。

とうとう、夏も越してしまったようです。クーラーなしで。

扇風機1台と天井のファン、それから、寝るときは寝ござ。
これで、結構快適な夏でした。

今度は、秋、冬。どうなるのでしょう。

台風対策で、一応、ウッドデッキのテーブルといすをたたみ、植木鉢を玄関に避難させました。

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2009年8月23日 (日)

エコ・ライフスタイル

近所にホームセンターがないなあ、と物色していて、先日、四季の森公園の近くの、四季の森フォレオに巨大なホームセンターがあるのを発見したので、昨日もふらりと行ってみました。今後の庭の構想を練りながら、店内をぶらぶら眺めてきました。
その後、ちょっと公園内を覗いてから、ららぽーと横浜に行って、ふと思い立って燻製用のチップなどを買って、夕食は、蓋つきの魚焼き網を使って即席燻製三昧。

この日の交通手段は、先日買ったダホンの軽量折りたたみ自転車。四季の森公園までは結構な登りなのですが、そこから鶴見川まで中原街道を滑り降りるのはけっこう爽快で、くせになりそうです。500円の駐車場の脇にタダでとめられたし。

今日は、バスで、反町のサカタのタネのガーデンセンター横浜へ。支柱とコンテナなどを買ってバスで戻りました。いいところは、バス停が駅よりずっと家に近いので、荷物があっても楽ちんなのです。運転しなくてもいいし、駐車場を探さなくてもいいし。

無理をしているわけではなく、楽なことをしているだけで、結果的に地球にもやさしいかな。

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